ニューエイジ『奇跡のコース』と、サタンが演じる偽キリスト の証言。
(2022/08/03 改訂)
ニューエイジの間で『奇跡のコース』という本が人生のバイブルであると評判のようです。
この本はスピリチュアル系の師にも高く評価されているようです。聖書よりも真実だと大切に読んでいる人がいるそうです。
そしてこの『奇跡のコース』の著者は、なんとあのイエス・キリストをチャネリングしたというのです。
そんなスピリチュアル系に大切に読まれている“世紀の名著‘‘『奇跡のコース』がどのような本なのか、そのチャネリングによって現れるイエスとは本当は何者なのか、調べました。
(Wikipediaより転載)
ACIM
書籍『A Course in Miracles』(1976年出版。邦訳:奇跡のコース、奇跡講座)の略称で、この書籍による独習過程も指す。単にコースとも呼ばれる。アメリカ人心理学者ヘレン・シャックマンが、イエス・キリストと思われる内なる声を聞いて書いたとされる、英語のスピリチュアリティ文書である。世界は幻影であり自らの外には何も存在せず、己が神と一体であるという、古代インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ的な非二元論思想が説かれている。この作品の最大の前提は、人生で達成できる最大の「奇跡」は「愛の存在を知ること」である、という教えである。神と一体となることで、愛を知るとされる。ニューエイジで広く読まれ、バイブル的存在だった。
奇跡の学習コース、奇跡の道などとも訳される。
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(こちらより転載)
ACIMとは、イエスキリストからチャネリングされたA Course In Miraclesの頭文字語。「エイ・シー・アイ・エム」または「エイシム」と読む。
著作権が消滅してからは、いくつかの邦訳が現れてきた。
一つは、出版社ナチュラルスピリットの何年も待ち望まれた邦訳だ。『奇跡のコース 第1巻/テキスト(大内博訳)』という邦題で、ようやく2010年12月4日にて発売された。ところが仕上げが翻訳調なので、がっかりした購入者が少なくない。
もう一つは、FIP公認版である『奇跡講座』。加藤三代子・澤井美子訳で、中央アート出版社より出版され、2013年6月25日にて発売された。
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ACIM(奇跡のコース/奇跡講座)の真相
ニューヨーク市にあるコロンビア大学医学部の助教授であった故H・シャクマン(Helen Schucman)博士は、1965年10月から1972年9月にかけて、イエス・キリストから奇跡の学習コースをチャネリングした。英題は『A Course In Miracles』(ア・コース・イン・ミラクルズ)となり、頭字語の『ACIM』としても知られている。
1976年に出版されてから20ヶ国語に翻訳された。全世界で2012年までは、口コミだけで200万部を突破。
H・シャクマン博士 |
B・セトフォード博士 |
「イエスの『声』は無音でした。心の中で聞こえる一種の速い口述という感じでしたので、内容を速記帳に書き止めておきました。手が勝手に動くような作業ではありません」と故シャクマン博士は述べる。
2003年10月には、8年にわたる法廷闘争のあげくに、ニューヨーク州の地方裁判所判事が下した判決で、ACIMの英語バージョンの著作権が暫定的に無効になった。
2004年5月28日には、上訴できる期限が切れたため、ACIMのすべての英語バージョンは正式に「公有財産」、つまり著作権が消滅状態となった。(但し、Clarification of TermsまたはUse of Termsというタイトルの用語集、そして各センテンスに付けられた番号だけは依然として著作権で保護されている)
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語っているのはイエス・キリストらしいのですが、クリスチャンではないそうです。
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キリスト教ではない
「わたしはクリスチャンではない」 ――イエス・キリスト(P・タトル氏のチャネリングで)「わたしが十字架にはりつけにされたのは、あなたたちが悪かったからではない」 ――イエス・キリスト(ACIM)「わたしもあなたも同じく神の子」 ――イエス・キリスト(P・タトル氏のチャネリングで) |
ACIMはキリスト教ではない。教会堂等もない。礼拝など儀式もない。悟りへと導くコースだ。「時」や「空間」、「物質」、「因果」、「運命」、「人」などの驚くべき実相について現代人が理解できるように事を分けて説いてある。
また聖書を訂正する個所もところどころある。例えばイエスは、名聖句である「まづ神の国と神の義とを求めよ、されば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」(マタイ伝6:33)の「求めよ」を「念ぜよ」と訂正した。
当然ながら数多くのキリスト教原理主義者は、イエスの「声」を悪魔サタンのだとぎゃーぎゃーわめき立て、ACIMをブラックリストに載せている。
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勝手にイエス・キリストの名を騙って間違った福音を伝えているのだから当たり前です。
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千ページを超える宝の山
ACIMのページ数は版によって異なるが、FIP版は、669枚のページでできたテキストブックと、488枚のページでできたワークブックと、92枚のページでできた教師用指導書という3つの書に成り立っている。3書が一冊にまとまっているので分厚い。
ACIMのワークブックには、悟りへと導く365課のレッスンが掲載されている。早くとも、1日に1レッスンを練習するペースで進めば一年でワークブックを終えられる。
独学できるコース
ACIMは人間の教師につかなくても独学できるコースだ。知識を蓄積するようなコースではなく、かえって、体験する不思議なアドベンチャーになる。聖霊が直接導いてくれるのでACIM専門学校などに通う必要はない。
(中略)
白熱を放っているゴーゴーとうなる金鉱
新約聖書にぽつぽつ出てくるイエスの御言葉がきらきら輝く金塊だと気付いた人は少なくない。金塊だとすれば、イエスの御言葉でぎっしり詰まった千ページを超えるACIMは、まばゆいばかりの白熱を放っているゴーゴーとうなる金鉱だと言っても過言ではない。
「あなたの充足は無限だ」 ――イエス・キリスト |
ウハウハ声がこだまするほど広々したこのまばゆいばかりの金鉱だけで満足する人が多いだろう。でもイエスからのプレゼントはそれだけで止まらない。
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ウハウハとか言葉遣いをもう少し考えてください。
それが新約聖書の御言葉よりもまばゆいのか。
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想像を絶する得
1982年2月のときからイエスは、タトル氏のチャネリングを通してわたしたちに話し掛けている。1985~2002年に掛けて、100回以上の『Raj Gathering』という集いを行なった。
それらの集いでは、奇跡や神秘的な治癒、人生相談、充足、問題解決、神、聖霊、テレポーテーション、死、カルマ、霊魂の再生、宇宙人の到来、守護神、時事問題、悟り、セックス、ACIM、金、瞑想、霊、時間、空間、物質、天国などありとあらゆる話題が取り上げられた。
天国の試写会だと言える。
2002年にイエスは、『Raj Gathering』にピリオドを打ってから、ACIM解説中心の『ACIM Study Group』というACIMオンライン放送を開始した。現在(2015年01月)にも続けられている。解説の一から十までイエス・キリスト自らが行なっている。HP名は『Northwest Foundation For “A Course In Miracles”』となっている。
当HP「イエスは語る」では抜粋集を日本語で読むことができる。
raj
【名】
- 〈ヒンディー語〉統治
- 《the Raj》〈ヒンディー語〉英国のインド支配
banyan raj
raja
【名】
- 〔インドの〕国王、支配者
発音rɑ́ːdʒə
* コースについてよく聞かれること *
イエスってあのイエスさんのことですか?
【 イエス 】について
※ 奇跡講座におけるイエスとは、歴史上で語り継がれている宗教の象徴であるイエス像のことではありません。
キリスト教の教えと「奇跡講座」の教えが全く共通性がないことを先に言っておきます。
そればかりか、聖書に出てくるキリスト教のイエスや、この世界で最も知られているイエス像、私たちがこれまで認識してきていたイエスと、『奇跡講座』のイエスとは、まったく別の存在であり、正反対のことを言っていることがコースを学んでいくと、わかるでしょう。
コースにおけるイエスとは、私たちが赦したいと願い頼る時に助けてくれる存在であり、これらは宗教とは全く関係ありません。
イエスについては、JACIM奇跡講座・用語集 イエス[Jesus]をご覧下さい。
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ACIM奇跡講座http://www.naturalvoice.jp/index.htmlのホームページより転載……..冒涜
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(用語集より転載)
イエス [Jesus]
『奇跡講座』の発信源であり、講座{コース}における第一人称、「私」。贖罪において自分の役割を最初に完遂した者であり、それゆえに贖罪の計画全体の責任者となった。自分の自我を超越したイエスは、キリストと同一化したので、今では、私達の学びの模範となってくれるとともに、私達が赦したいという願いを抱いて頼るとき、いつでも身近で助けとなってくれる。
(注 - 三位一体の第二位格であるキリストのみと同一視すべきではない。)
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一体性/一なること/単一性 [oneness]
智識のレベルにおける意味: 神とキリストの実相であり、両者の完璧な一致が天国を構成している。
知覚のレベルにおける意味: 個別の利益を信じる私達の信念を、赦しを通して取り消すときに、この世界に反映される。自分の特別性の想念を取り消して、他者と一つに繋がることは、単に、私達に内在する神の子としての単一性を受け入れることに他ならない。赦しのこのような目的を共有することが、私達の唯一無二の機能であり、それは天国における私達の「創造する」という機能を反映する。
(転載ここまで)
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「自我を超越したイエスはキリストと同一化した」だの、「キリストのみと同一視するべきではない」だの意味がよく解らない。「レベルの高い難解な本」という事にしているのか。
(こちらより転載)
奇跡講座は独習で行う内的なレッスンが基本となります。
コースでは、私たちがそれまで自我の思考(偽りの自己)によって、 大事に持ち続けてきた価値観を手放していく心の訓練をしていきます。
この心の訓練とは、私たちの真の心にある光と愛を遮っている障害物を取り除いていく内的な作業
(聖霊と共に見ていくこと)であり、コースではこれを赦し【真の赦しのレッスン】と言います。
真の赦しとは、この世界で私たちが体験していること、感じていることを教材と見なし、
自我を直視し聖霊に委ねていくことです。
この学習は独自の言葉使いや、詩的な文章からも、既に学んでいる人たちからも 誤解されてしまったり、
また真理に対する無意識の抵抗からコースを歪曲して解釈してしまうこともあります。
それゆえ、コースの学びが難解になり、停滞したり、何度も投げ出してしまいたくなることもあります。
ですが、この学びは、元来からあるACIM(奇跡講座)の理論に忠実に学んでいく場合、
また、” 私たちの心の準備が整った時 ” には、必ず学ばれていくものとなります。
この心の準備とはワークブック、テキスト、マニュアルの三冊を通じたレッスンと、
【赦しの実践】によって、培われていきます。
レッスンを通じて私たちは本当は何者なのか、神とは何か、真の赦しを通じて、
心の平安、真のやすらぎを体験し、 【永遠の神の愛】を思い出していくことになります。
あなたにその準備ができているのなら、心をひらいて、
この愛に満ちたメッセージを受け取っていくための意志を持ち、
共にレッスンをはじめてみましょう。
(転載ここまで)
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なんだかわかりにくい。
(Wikipediaより転載)
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現代で最も有名なスピリチュアリティ文書の一つで、ニューエイジを研究するヴァウター・ハーネフラーフは、コースを「スピリチュアリティのニューエイジ・ネットワークにおいて『聖典』の役割を果たしたということのできる『唯一の書』」と述べている。
ACIM支持者のゲイリー・R・レナードは、ACIMは自習が可能であり、真理の歪曲の影響を受けずに学ぶことが可能であるという点において、古今東西のスピリチュアリティの中でも非常にユニークであると主張している。
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(転載ここまで)
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結局のところ聖書を部分的に利用したニューエイジ本という事らしい。
何はともあれ、その「聖書の御言葉よりも何倍もまばゆいばかり」のACIMのイエス様の御言葉をご一読ください。
(どこからどう見ても、サタンがイエス・キリストを馬鹿にして嘘を話しているようにしか見えません。)
「イエスは語る」より転載(『奇跡のコース』の本の内容とは異なります)。
イエスキリスト、チャネリングされ、十字架の驚天動地の真相を語る
質問者:キリストの死にはどういう意味があったんですか。
ラージュ(=イエスキリスト):何?「キリストの死」だと?
かいつまんで言えば、あの出来事はちょうどポール君《=チャネラーのP・タトル氏》が今経験しているようなものでした。
あの出来事は、神のみこころがこの世の無知というもやもやを貫くための手段だった。これを行うために、自分はそのもやもやを仮に認めて、その中に飛び込んだんです。
それで自分の成長が促されたわけでもなく、自分が偉くなったわけでもない。
自分にとっては無用だったんです。
とは言っても意義がなかったわけではない。あの出来事の四六時中、自分はずっと愛を実践していたのです。愛の行為は有意義なわけです。
ぶっちゃけ、自分が十字架にかけられた時間はそれほど長くなかった。
意識を失ったように見えた時点で、実際は、わたしは自分の肉体からすーっと離れていった。近くの丘の上で立ち、群衆があれやこれやをやっているいきさつを観察していた。ずっとだ、墓の戸口の石が転がしのけられる2時間ぐらい前まで。
そこで自分の肉体に戻ったが、そのとたん、自分の肉体は分子的にアップグレードされた。
要するに、肉体として知覚されるための圧縮状態が解除され、ぴか~っと放射し、ライトボディに転換したわけです。この放射のインパクトで自分の肉体を包んだ布の繊維に、自分の風貌が打ち込まれた。
はい、この布は、盛んに討論されてきた、あのトリノの聖骸布なんです。あの写しは自分がわざと焼き付けたわけではなく、自然にそうなったんです。
トリノの聖骸布 |
自分のライトボディに照りつけられて、墓の中はきんきんきらきらって感じだったよ。自分は2時間くらいとどまってから墓を出た。
いいえ、自分は絶望したりはしなかった。あの一連の出来事の一から十まで、ずっと自分の平安の中にどっぷりと浸かっていたんです。
「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし《マタイ伝27:46、マルコ伝15:34》」という聖書の記述はでっち上げですね。
わたしはそんなこと言ってない。そんな弱音を吐く心境に陥っていなかったわけです。
ポール君なら、集会を開催したり、わたしの話を英語で表現したりしていますが、こんなことを行っている間は、彼はずっと自分自身の平安の中にどっぷり浸かっていますよ。
十字架関連の出来事にかかわっている間中、わたしも同じようになっていたんです。
よく聞け、諸君。
人が本当にわたしを殺せるという妄想にふけっていたら、わたしは土になったはずです。しかも自分の復活も昇天もなかったはずです。
でも実際は、わたしは死ななかった。
はい、あの死はただの錯覚だったんです、この世から見た錯覚。だから誰もがそれで有罪になったことはあり得ない。わたしは意識を失ったことも、正体がわからなくなったこともなかった、一瞬たりとも。
十字架に掛けられたとき、自分の肉体から離れた間にも、自分の個人性を現わすものはずっと自分に伴っていたんです。この世から見れば、それはつかめられない、不気味なホログラフィ映像みたいな感じのものだった。でもちゃんと自分に伴っていたんです。
と言っても、この事柄はあくまでもこの世から見た様子だった。実相世界から見れば、わたしは自分の体から離れたりはしなかったわけですね。
さて、わたしは十字架に掛けられたとき、ある重要な発言を反復していた。それは今の今まで理解されていない、わたしが今まで一度も解説しなかったものだ。こう発言した。
「父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり《ルカ伝23:34》」と。
これは群衆を罪から免除する目的の発言ではない。
トリノの聖骸布 |
彼らにはわたしに対して罪を犯すすべがなかったからだ。彼らの罪は錯覚だったんです。群衆はわたしをあの十字架に掛けたりしたように見えた。しかしそれはこの世から見た錯覚だけで、実相的には彼らは何もやっていなかったわけです。
「その為す所を知らざればなり」とは、群集は自分たちが何もしていないということに気づいていない、という意味だったんです。
「父よ、彼らを赦し給え」と唱えていたのは、彼らが罪を犯していないということを、彼らの受け入れられる言い回しで、彼らの耳に入れるためだったんです。
しかし、数知れぬ人々はその出来事のために罪悪感を覚えている。
神の一人子を殺したので自分たちがその十字架を負うべきだという羽目になった、と教え込まれてきたからだ。
その当時だけではなく、その当時以来ずっとだ。1392年にも。今年1992年にも。
これは実に悲しい。
この罪悪感はあなたたちの天与の喜びに対する侵害なんだ。
正当性のない侵害だ。
根も葉もない重荷だ。
信じ込まれた架空にすぎない。
もうこの肩の荷を下ろし、せいせいすればいい、本当に。
さて、今日と違って2千年前の当時では、本物の神については、人々の大半は無知だった。本物の神の普遍性と愛という本性について聞いたこともない。
もやもやした迷いがこの世、すなわち衆生界をすっぽり覆っていた。森の神やら川の神やら岩の神やらで、ピンからキリまでの架空の神々でごったがえしている体たらく。
この迷いを通り抜け、衆生界を啓蒙する必要があったんです。
わたしが肉体をもってその当時この世に登場したのは、その啓蒙を行うためだったんです。
そのほかに、啓蒙すべきことはもう一つあった。
それは、あなたたちはみんな、わたしの兄弟姉妹で、わたしと同等で、永遠の命を神から受け継いでいるということです。わたしも、あなたも、この世のすべての人は神の子だからですね、その当時でも、今日でも、いつでも。
だけどこれは言葉だけで啓蒙できるようなものではなかった。
なぜ?昇天した人の前例がほとんどなかったこともあって、生命のことを物質だとすっかり信じ込まれていたからです。自分たちのことを物質の塊であるかのように知覚され、遅かれ早かれ虚空に消えていくつかの間の存在だと確信されていたわけです。
この迷いを通り抜けるために、生命の永久性を衆生界の目の当たりに見せ付けるしかなかった。
そのために、あのはりつけの刑が行われたんです。
実相世界から見たら、わたしは死ななかった。だけどこの世から見たら、自分の肉体は冷たくなり、紛う方なく死んでいた。
そこで自分の復活が行われた。あの冷たくなった肉体に鼓動が戻ったのだ。空気を吸い込み、目を開け、むっくり起き上がり、自分はよみがえったわけです。
人々は生命をはかないものだと思い込んでいたが、わたしの復活を見せ付けられて泡を食った。知性というものも、生命というものも、自分たちの知覚できる範囲を超えているということを思い知ったのです。
トリノの聖骸布 |
しばらくするとわたしの昇天が行われた。この世から見れば、わたしはひゅーっと空に舞い上がり、見えなくなったのです。
これで二つの目的が果たされた。
一つ目は、テレポーテーション、すなわち乗り物なしでの移動が可能だということが証明された。
これを知っておくことは重要。なぜなら世を去る前に目が覚めたら、あなたたちもテレポーテーションで移動するからだ。
いいえ、ふざけて言っているのではないぞ。肝に銘じとけ。
もう一つは、衆生界の知覚を超越した事柄の存在が明らかになった。これを知的レベルで伝えられないので、群衆の目の当たりに見せ付けるしかなかったんです。
こうして神に対するもっと道理にかなったイメージが衆生界の迷いを通り抜けた。実相というものが人々の狂った知覚を通り抜けたわけです。こういうのは、神からの啓示というものですよ。脳裏に焼きつく啓示。
こうして衆生界の目を覚ます基調が打ち出された。
と言っても、この真相が捻じ曲げられる羽目になった。というのは、処刑されたのは神の一人子だと伝えられるようになった。そこで人々は反省して罪悪感を覚えるようになったのです。
よく聞け。
わたしは確かに神の子。だけど神の一人子ではない。
あなたも同じく神の子。あなたの本当の源は父なる神だけなんです。あなたのことは神の現れ以外の何物でもないわけです。
わたしだけが神の子だとすれば、残りの人類はそうでないということになるじゃないですか。しかもあの群衆がその神の一人子を殺したということになる。めっぽう重い罪ですね。
しかし群衆がわたしを殺したように知覚されても、実際はそうではなかった。わたしは死んだりはしなかったわけです。だからそのことであなたが十字架を背負うことはただの骨折り損。
笑いをかみ殺したけど、あなたの「キリストの死」という言い方は滑稽に聞こえた......
1992年、アイルランド共和国ダブリン市 |
悪魔が滑稽だと笑いをかみ殺しただけだと思われます。
トリノの聖骸布の正体は、テンプル騎士団総長「ジャック・ド・モレ―」であるとの説もあるようです。
胡散臭いので相手にしません勝手に語っていてください。
「肉体として知覚されるための圧縮状態が解除され、ぴか~っと放射し、ライトボディ(?)に転換した」と「イエス」が言ったそうですが誰が信じるのか。
それでライトボディとは何だと検索をしてみると、スピリチュアル系のサイトしかアップされず、
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肉体のライトボディ化は、本来的には地球のエネルギーシフトのプロセスによって起こっています。地上に降り注ぐ光を肉体に吸収することで、3次元的な性質が薄れ、ライトボディが出来上がって行くのです。私たちはみな、自分のペースで光を吸収し、進化し続けています。意識的に進化に携わる人は、そのスピードも速くなります。何が起きているか気付かない人たちの変化は、惑星のシフトに応じて進行していきます。その進行には、12のレベルが・・・・
テレポートを証明するのなら生きているうちにその場で行えばいい。イエス・キリストが十分に伝道を行なって、亡くなってから文字通り蘇生してもよかったはず。
それでこの二千年の間に誰がテレポートと蘇生を理解して実行したのか。低いスピリチュアルの嘘の話。
テレポートの証明だとかライトボディ化して布に転写したとかそんな事の為にイエス・キリストが存在していたのですかそうですか。素晴らしいお言葉ですね・・・。
キリスト教最大のタブー。イエス・キリストの「肉体」が生き返ったという大嘘。http://rapt-neo.com/?p=26085より転載。
ここ最近、キリスト教に関する記事をいくつも書いてきましたので、この際ですから、今回はキリスト教最大のタブーに迫ってみたいと思います。
私のブログにはキリスト教のことが沢山書かれてありますので、もしかしたら多くのクリスチャンの方がこのブログを読みに来て下さっているかも知りません。
そして、そのクリスチャンのほとんど(というかほぼ全員)が、聖書に書かれてあるイエス・キリストの復活をそのまま信じているのではないかと思います。
つまり、イエスが死んだ後、三日後に生き返ったと信じているわけです。
さらにはそのイエスが、四十日後に天に昇っていったという話まで信じているのではないでしょうか。それを信じなければ、クリスチャンではないと言われてしまいますからね。
しかし、はっきりと言います。
死んだ肉体がどうして再び生き返ることができるでしょうか。
特にイエス・キリストは十字架に磔にされて衰弱死してしまったのです。
手のひらと足首とに大きな釘を打たれて十字架に磔にされましたので、当然、大量の出血があったことでしょう。ですから、出血多量で死んだとしてもおかしくはありません。
十字架刑というのはそのような残酷な刑なのです。
しかも、イエス・キリストは十字架に磔にされるまで、さんざん激しく鞭を打たれました。
その鞭には鉄製のカギのようなものが沢山ついていましたので、鞭打たれるたびに肉がむしり取られ、かつ大量の血が飛び散りました。
しかも、イエスの頭には茨で作った冠まで被せられましたので、頭からも大量の出血があったはずです。
詳しくはメル・ギブソン監督の「パッション」という映画をご覧になってみてください。
この映画は、イエス・キリストが鞭打たれて十字架刑によって死ぬまでの過程をかなり具体的に映像化したもので、日本では余りヒットしませんでした(というか、相手にもされませんでした)が、アメリカなどのキリスト教国では空前の大ヒットを飛ばしました。
その映画の一部映像が以下になります。
このようにイエス・キリストは普通ではない悲惨な死に方をしました。
にもかかわらず、イエス・キリストの「肉体」がどうして生き返ることがあるでしょうか。
いえ、仮に生き返ったとしても、こんなボロボロの「肉体」がまともに機能を回復したりするでしょうか。
普通に考えれば、絶対にそんなことはあり得ません。
にもかかわらず、クリスチャンの多くが、イエスの「肉体」が三日後に生き返ったと信じています。
まあ、仕方がありません。確かに「聖書」にはイエス・キリストが死んだ後、イエスが弟子たちの前に再び現れたとはっきりと書かれてありますからね。
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週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。
ところが、石が墓からころがしてあるので、 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。
そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。
女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。
すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
そこで女たちはその言葉を思い出し、 墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。
この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。
ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。
(ルカによる福音書24章1〜12節)
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しかも、イエスが生き返った後、四十日後にイエスが昇天したとまで聖書には書かれてあります。
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こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて 言った、
「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。
(使徒行伝1章9〜11節)
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しかし、果たして人間の「肉体」が空高くへと飛んでいくことができるでしょうか。
絶対にできませんよね。
では、「聖書」には嘘が書かれてあるのでしょうか。
まあ、そう思う人もいるでしょう。
しかし、聖書をすべてきちんと読んだ人は、聖書に書かれてあることが全て嘘だとは到底思えないはずです。
では、イエスは本当に生き返って、天に昇っていったのでしょうか。
この際ですので、はっきりと言いましょう。
イエスが死んでから三日後に蘇り、さらに四十日後に昇天したということは、つまりイエスの「肉体」が復活したのではなく、イエスの「霊体」が復活したということではないでしょうか。
そう考えると、全てがすんなりと理解でき、納得できるのではありませんか。(もっとも、この世のクリスチャンはこんな話をする私のことを「異端」と呼ぶでしょうが。)
しかし、この世のクリスチャンたちは、人間に「霊」と「肉」があることを知らないので、このイエスの復活を無理やり「肉体」の復活だと思い込み、信じ込んでいるわけです。
今まで何度も言ってきましたが、聖書にはっきりとこう書かれてあります。
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」(テサロニケ人への第一の手紙5章23〜24節)
このように聖書には、人間には「肉」と「心」と「霊」があるとはっきり書かれてあります。
なので、もしクリスチャンたち全員がこの聖書の言葉をちゃんと理解して、人間に「霊」と「肉」があると分かっていれば、イエス・キリストの復活を「肉体」の復活とは考えず、「霊体」の復活だと考えていたのではないでしょうか。
そもそも聖書には、イエスの復活が「霊体」の復活であることを仄めかすような記述もあります。
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八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。
戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
(ヨハネによる福音書20章26節)
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このようにイエスはドアから入らず、いきなり部屋の中に現れたのです。これは明らかにイエスの「肉体」ではなく「霊体」が現れたということではありませんか。
とはいえ、イエスの「霊体」は「肉体」と同じぐらいはっきりと見えたのでしょう。少なくとも、聖書の記述を見ると、どの弟子たちもイエスの「肉体」が蘇ったと勘違いしているかのように見受けられます。
そして、そう勘違いしたまま「聖書」を記述したような箇所も見受けられます。例えば以下のように……。
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そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
こう言って、手と足とをお見せになった。
彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。
(ルカによる福音書24章38〜43節)
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ここまで書かれると、確かにイエスの「肉体」が復活したのではないかと思ってしまいます。
しかし、よく考えてみてください。
「新約聖書」が書かれたのは今から二千年も前のことです。そして、二千年前には今のような科学的な知識はありませんでした。
なので、「聖書」を書いた人たちは、現代のような科学的な知識もないまま、ただ見たまま聞いたままを書いたわけです。
となると、我々現代人はきちんとそのことを念頭に置いた上で「聖書」を読み、解釈しなければなりません。
二千年前の人たちの考えていたことを、我々現代人がそのまま受け入れてはいけないのです。そうでなければ、それは「信仰」ではなく「妄想」になってしまいます。
ところが、例の如く、悪魔どもがこの教理をねじ曲げてしまいました。
イエスのこの復活は「肉体」の復活であり、イエスを信じた人も死んだ後はその「肉体」が復活するのだと、クリスチャンたちに無理やり信じ込ませてきたのです。
キリスト教国の多くが、「火葬」ではなく「土葬」を行うのも、実は死んだ人の「肉体」がいずれ復活すると信じているからです。
しかしながら、死んだ人がゾンビのように復活したという話を、今まで一度でも聞いたことがあるでしょうか。
一応、仮死状態になっていた人が棺桶の中で生き返ったという話なら聞いたことはありますが、死んでから何日も経った人が墓から生き返ったという話など一度も聞いたことがありません。
ですから、このイエスの復活は「肉体」の復活ではなく「霊体」の復活だと解釈するべきなのです。
実を言うと、私が「聖書の解説書」を読むなと言ったのも、ここに大きな理由があります。
「聖書の解説書」を書いた人たちの多くは、「聖書」が何千年も前に書かれた書物であることを考えず、「聖書」に書かれたことを全てそのまま鵜呑みにしています。
そのため、科学的知識と噛み合わないことを平気で信じて、それを我々にまで信じるように押しつけてくるのです。
科学的知識と「聖書」の記述とが噛み合わなければ、その場合は「聖書」の記述を正しいと考えろとまで言ったりもします。
しかし、そんな無茶な話をするからこそ、多くの人が「聖書」を敬遠してしまうのです。
まさに悪魔の計らいとしか言いようがありません。
わざと誰にでも分かる嘘を混ぜることによって、誰もが聖書を信じないように仕向けてきたのでしょう。
このため、私のブログを読んで試しに「聖書」を読み、「聖書」を読んでも意味が分からないと思って、「聖書の解説書」を読んだ人の中には、もう既に「聖書」はインチキだと思って読むのをやめてしまった人もいるかも知れません。
「聖書」に書かれてあることの意味を理解することも重要ですが、まずは一通り「聖書」を読み、おおよその概要を掴んでみてください。
そうすると、仄かに浮かび上がってくる「悟り」みたいなものがあるはずです。
で、さらに「聖書」を読み続けることによって、その仄かな「悟り」がいずれはっきりとした「悟り」になっていきます。
それだけでも心に深い感動が湧いてきますが、そのような「悟り」をさらに幾つも積み重ねていくことで、自分の人生に何らかの答えを見出し、心に大きな希望や喜びが湧いてくるようになるのです。
それは他のどんな本を読んでも得られない幸福な体験です。
ぜひとも私は皆さんにそのような体験をしてほしいと思います。
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(転載ここまで)
引き続き、サタンの偽キリストの言葉。
質問者:あの十字架刑の一連の出来事の中では、苦痛をお感じになりましたか。
ラージュ(=イエスキリスト):いいえ、全然。
わたしはあの一連の出来事の成り行きの形だけを演じただけなんです。要するにこの世の無知というもやもやを仮に認めただけです。仮にですね。飲まれたわけではないですね。
自分のことを衆生界の条件で解釈していなかったわけです。
自分は神との一体性を生で経験していた。
自分の存在がそっくり神に構成されているということをはっきりと意識していた。だからあの一連の出来事が実際に行われたのではなく、衆生界で知覚された錯覚の中で行われたということは、自分にとっては明々白々だったわけです。
でも実際に行われていなくても、この錯覚は、わたしが衆生界の人々を啓蒙するための舞台だったのです。
いいえ、あの十字架刑が起こることに対して、わたしには抵抗感がこれっぽちもなかった。
説明しましょう。
あなたたち一人一人は、求道中で、それぞれの目覚めに向かっていると思い込んでいますね。
自分たちの目に映っているのは何でしょう。
目の前に輪になって座っている人々でしょう。にこにこする人もいれば顔のくもった人もいる。のっぽもずんぐりも、デブもガリガリも、さまざまな体型がずらっと、ある道場の中で、ある街の中で、自分たちの惑星のどこかでね。
求道に役立つだろうと思って、あなたたちはこのワークショップに参加している。わたしがあなたたちを手伝っているように見える。
ところが実際はそれは錯覚なんです。
あなたたちは皆、今、ここ、天国の只中にいるのです。天国の眩いばかりの華麗な環境の中で座っているのです、一度も暗くなったことのないライトボディの姿でね。きら~~っと輝いているよ、あんたたちは。しかし自分たちの視力ではこれが知覚できない。
自分たちが求道している、また目を覚まされる必要があると思い込んでいる。
しかし実相世界の観点からは、そうではない。あなたたちのことは、明らかに父なる神の現れにほかならない。今も堕落していない。一瞬たりとも堕落したことがない。
この世でのあなたたちの経験は実際に起きているのではない。仮想なんですよ。自分たちが眠っているという仮定で、想像の中で起きているわけです。
これは寝床で見る夢のような現象だ。その事柄がまざまざと見えるだろうけど、それが実際に起きているわけではない。
あなたは目が覚めたら、それに気づくはずです。
あなたたちは堕落していない。一度も堕落したことがない。今も神の百点満点パーフェクトな現れだ。だからこのような話をしているわたしの行為は狂気のさたのようです。
けどわたしは困惑していない。
実相的にはあなたたちも困惑していない。
この行為はこの仮想の中で、わたしがあなたたちと接触する手段です。目的は、あなたたちの本来の明瞭さを覆う曇りを吹き飛ばし、妄想をすかっと晴らすということです。
いいですか。あの十字架の一連の出来事は、ちょうどそれと同じような行為だったんです。
あのいわゆる「キリストの受難」は衝撃的に見えても、わたしはあの錯覚を無条件に受け入れたわけではない。無条件に受け入れたら復活しなかったはずだ。そう、この衆生界の人々が死ぬと同じように、自分も不帰の客となったはずだ。
衆生界の人々は自分たちのことをそれぞれ、なんらかの知性をもつ肉体に宿っているものだと思い込み、命数が尽きると亡き数に入るものだ。
しかし命数が実際に尽きるわけではない。命は不死なんだ。だから、当然ながら、この証拠を彼らに見せ付ける必要があった、生でね。そして、わたしがよみがえたように、誰でもできるということが明らかになる。
ちょっと想像してみてください。
新約聖書の時代だ。わたしの連中にあなたも加わっている。ガリラヤへの旅路の途中、てくてく歩きだ。明けても暮れても一緒。ほこりが立つ場所で一休みしたり、飯を作ったりする。衣類をろくに洗えない日もあるぞ。
どうですか。
それを体験したら、わたしのことを平々凡々なやつだとわかるはずだ、あなたたちのように。
だって、歩いていると、あの連中のみんなと同じように、わたしも汗を垂らしていたよ。わたしは超凡でも非凡でもなかったわけです。汗を垂らしているわたしの姿を見ただけでわかる。
だからわたしの復活には、当時の人々にとっては特別の意義があった。
あのイエス君にできるならおれにもできる、ということだったわけです。
ところが現代においてはこの意義が見えなくなってしまった。
現代は、わたしのことを巡るでっち上げがはびこり、人々の想像の中でわたしが人並み外れた異例だと見なされてきた。
超凡の主イエス様には復活がおできになられても、平凡のおれなんかにできっこない、ということになったわけです。
だがあの復活は、あなたたちも同じようにできるということを見せるために起こったんです。
それが十字架の目的だったわけです。
誰かが150歳になっても、200歳になってもまだぴんぴんしているとするよ。それはすごい励みになるじゃないですか。
しかしそれが普通ではあり得ない異例だと見なされたら、励みにならない。
死が避けられないものだという信念は習い性となっている。だが人々はその習い性を手放したくて、その信念を覆す、腑に落ちる証拠を要求している。
だけどこの要求に対して、この衆生界の条件で応じるなら、人々のエゴに応じる羽目になってしまい、人々のためにはならない。
人々のためになるのには、自分の中心部の中に沈み、自分の実相と触れ合い、その智慧をよりどころにして行動することだ。そうすれば苦もなく、適切な行動を起こしていることになる。これは法則なんです。
人々はあなたとの接触で、なんとなく気が晴れ、人生観が変わったということに気づくものだ。
わたしはその法則をちゃんと知っていました。あのいわゆる「キリストの受難」の間中ずっと、わたしはどっぷり自分の中心部に浸かっていた。自分の存在という運動をよりどころにして行動していた。
言い換えれば、父なる神のみこころを行っていたわけです。
よって苦痛はこれっぽちもなかったんです。
ポール君も分かっています。はい、ポール君は、わたしの話を聞いている間中、不安感を全然覚えていないんです。聴衆の前にいても、そうでなくても。
トリノの聖骸布 |
ぞっとするような状況の中にいても。行動計画もないときにも、自分が管理していないときにも。なのに彼の意識は今という時点にどっかと据えられています。今行われている事柄をすっかり意識しています。
だけどすっかり安らいでいます、わたしが十字架を経験したときのように。
わたしが苦しんだかと思うのをやめてくれよ。
わたしが苦しんだとすれば、わたしもこの世の人々が見ていた錯覚にとらわれ、あの復活も昇天も起きなかったはずです。
それは真理なんです。
ついでに言うけど、あの一連の出来事の真相からは、もう一つの教訓が得られます。誰もあなたに危害を加えることができないということなんです。加害・被害が錯覚だということが証明されたわけです。
加害・被害という現象は、危害を自分自身に加えた人がその罪を他人に擦り付けているということだけなんです。
《一部省略》
群集は問題児のわたしをこの世から駆除しようとしたが、結局できなかった。わたしが承諾しなかったからです。
この教訓にアクセントを置きたい。
なぜならこんな錯覚を見抜ければ、罪がないということが証明されるからです。
考えてみな。罪の錯覚を見抜き、人々の歪んだ観点に加担しないことで、罪がなかったことを証明することができる。
罪が犯されたように見える行為の間最中でも。
これこそ、無条件の愛なんです。
誰かのために命を投げ出すことは無条件の愛ではないのです。罪悪感を覚える人の信念構造を認めてやらないことが愛だというわけです。
こうしてその罪悪の信憑性の正当化傾向を押しとどめるのです。
これこそ、愛というものなんです。
2001.4.29、米国ワシントン州キングストン村 |
(転載ここまで)
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罪悪の信憑性の正当化傾向。意味が分からない。
「誰かのために命を投げ出すことは無条件の愛ではないのです。罪悪感を覚える人の信念構造を認めてやらないことが愛だというわけです。」
、「誰もあなたに危害を加えることができないということなんです。加害・被害が錯覚だということが証明されたわけです。加害・被害という現象は、危害を自分自身に加えた人がその罪を他人に擦り付けているということだけなんです。」
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「誰も堕落していない、みんな等しく神の子なんだ」と耳ざわりの良い事を言いながら、「あなたたちは天国の只中にいるのだ、自分たちの目に写っているのは錯覚なのだ、幻想なのだ」、「被害者も加害者もない」、「罪なんかどこにもないのだ、それこそ歪んだ観点だ」などと悪を悪と言わずに攪乱した話で頭をおかしくさせるサタンです。洗脳です。
以下はコースの教理の一部です。
(こちらより転載)
奇跡の道 学習書
一部
第一課この部屋のなかで(この路上で、この窓から、この場所で)
自分が見ているものには何一つ、何の意味もない。さあ、自分のまわりをゆっくり見回して、自分の見ているものがなんであれ、それにこの想念を本当にはっきりと適用することを実践するがいい
この机にはなんの意味もない。
この椅子にはなんの意味もない。
この手にはなんの意味もない。
この足にはなんの意味もない。
このペンにはなんの意味もない。つぎに、自分のすぐそばにあるものから少し離れたところに目をやって、広い範囲にこの想念を適用してみるがいい。
あの戸にはなんの意味もない。
あのからだにはなんの意味もない。
あの電気スタンドにはなんの意味もない。
あの標識にはなんの意味もない。
あの影にはなんの意味もない。こういうふうに述べるのに、べつに順序だってならべてあるわけではないと気づくだろうし、どんな種類のものには適用するとか、しないとか、そんな区別はしないこと。それがこの練習課題の目的。目にするものは何であれ、ただそれに適用するようにすればいい。その想念をこの一日、実践するにつけ、それを全く無差別に使うこと。あなたが目にするものには一つ残さず、それを適用しようとなどしないほうがいい、こうした練習は儀式的にするべきではないのであるから。ただ、自分が見ているものを何一つ特別に除外視するようなことは絶対にしないことだ。その想念を適用することに関しては、どれ一つとってみても、他のものと同じことがいえる。
『奇跡の道―兄イエズスの教え』より
(転載ここまで)
これでさぞ素晴らしい人生に変えることが出来るのでしょう。気味が悪い。
このイエスの振りをしているサタンはサタンの存在についてはほとんど語りません。神についてもまともに語りません。嘘ばかりです。
そうして聖書が間違いなのだ、君たちは無限に自由なのだ、もう罪の荷を下ろせばいいなどと言って巧妙に堕落をさせようとします。
そして何かが悪い事が起きたら、現実は幻想で罪も意味も正しいも間違いもない、被害者も加害者もないのだなどと語り頭をおかしくさせようとします。
参照
悪魔とは空想の産物ではなく、架空の存在でもありません。悪魔崇拝者たちはそんな非現実的なものを拝む連中ではありません。http://rapt-neo.com/?p=18882
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悪魔崇拝者を根本的に滅ぼし尽くす方法。それは「霊界」の奥義を知ることから始まります。http://rapt-neo.com/?p=19013
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「霊界」という奥義について。悪魔崇拝者たちは「霊界」の存在をひたすら我々一般庶民に隠してきました。http://rapt-neo.com/?p=18964
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世界を支配しているのはイエズス会 (イルミナティ) であり、イエズス会のトップは天皇です。http://rapt-neo.com/?p=22792
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スピリチュアル系で天使ミカエルとお話が出来ます☆という人も大嘘です。サタンの存在を知らないお花畑です。キリスト信仰者でもない人の近くに天使が居るわけがない。それは偽の霊に騙されているか、悪魔、悪霊だと知っていながら嘘をついて商売をしている詐欺師です。
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このような偽のイエス・キリストからの言葉が世界中で信じられているらしい。頭がおかしくならないのでしょうか。
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「あなたたちは皆、今、ここ、天国の只中にいるのです。天国の眩いばかりの華麗な環境の中で座っているのです、一度も暗くなったことのないライトボディの姿でね。あなたたちは堕落していない。一度も堕落したことがない。今も神の百点満点パーフェクトな現れだ。」(ACIMのイエス)
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サタンはいつも耳ざわりの良いことを言って悪魔の存在から目を逸らすように仕向け、巧妙に人間達を堕落させようと狙っています。
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聖書よりも、この「イエスであってキリスト教ではない、全く別の、正反対のイエス」の言葉を聞いて一体誰の人生がどう救われるのか。学ぶ人の気が知れない。
この「イエスの言葉」を翻訳をした人もよくもこのように、いかにもサタンのような話し方で訳したものだと思う。
(Wikipediaより転載)
反応・批評・批判
ケネス・ワプニックは「聖書を文字通りの真実であると考えるならば、(聖書直解主義の視点から)コースは悪魔に取りつかれ霊感を与えられたとみなされるだろう」と述べた。
一方、シャックマン、セッドフォード、ワプニックの友人だった司祭Benedict Groeschelはコースとその組織を批判した。コースのいくつかの要素を「重大で潜在的に危険なキリスト教神学の歪曲」であり「偽の啓示の好例」で「多くにとって霊的な脅威になる」と書いている。
福音主義の編集者Elliot Millerは、コースでキリスト教の用語はニューエイジ思想に似たものに「完全に再定義」されていると語った。別のキリスト教徒の評論家は、コースはキリスト教と相いれない「強力なアンチ聖書」であり、創造主と被造物の区別をあいまいにし、オカルトやニューエイジの世界観を強く支えていると述べた。
ロバート・キャロルは、コースは過度に商品化され「改良されたキリスト教」という特徴づけをされた「マイナー産業」だと批評した。キャロルはその教えはオリジナルではないと述べ、「東西の様々な出典」からえり抜いたものであることを示唆した。
(転載ここまで)
引き続きACIMのイエス(サタン)の御言葉。
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質問者:十字架刑の抽象的な意義を教えていただきたい。《質問の要約》
ラージュ(=イエスキリスト):あれは起こった通りに起こっただけで、抽象的な意義などは全然ないよ。
十字架刑という形になったのは、人々の口の端に上る予言を実現するためだけだったんです。
教訓を与えたのは復活と昇天のほうでした。
とは言っても、その予言が成就したということは、何世紀にもわたる、言わば「神の計画」の裏づけとなった上、神の存在を見事に証明した。
はい、抽象的な意義は一切なかったんです。
予言されたのは十字架刑だった。だから毒殺などの形で行われたら、予言の成就にならなかったわけです。そればかりか、世界とその日常生活に染み渡る、言わば「神の思し召し」の存在の裏づけにもならなかった。
あの一連の出来事を人々の脳裏に焼き付けるためには、そんな裏づけは不可欠だったわけです。
1989年、豪州シドニー市 |
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(転載ここまで)
「ACIMのイエス」の言葉のまとめ。
「イエスは超凡でも何でもない、イエスのしたことは平々凡々なやつだった。いいえ、あの十字架刑が起こることに対して、わたしには抵抗感がこれっぽちもなかった。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉はでっち上げ。ちっとも苦しんでなどいない、安らいで復活とテレポーテーションをした。墓の中はきんきんきらきらって感じだったよ。滑稽で笑いをかみ殺すから苦しんだと思うのを止めろ、あれは起こった通りに起こっただけだ。誰にだって簡単にテレポート出来る事を証明しただけだ。あのイエス君にできるならおれにもできる、ということだ。
現代は、イエスのことを巡るでっち上げがはびこり、人々の想像の中でイエスが人並み外れた異例だと見なされてきた。
イエスだけが神の子だとすれば、残りの人類はそうでないということになるじゃないですか。しかもあの群衆がその神の一人子を殺したということになる。めっぽう重い罪ですね。
神の独り子を殺した罪と思う必要はない、あの死は錯覚だったんだ。人が本当にわたしを殺せるという妄想にふけっていたら、復活も昇天もなかった。イエスは神の独り子ではない。あなたも私も神の子、皆同等だ。イエスは皆と同じように汗をかいてるんだから平々凡々な奴だとわかるはずだ。
誰もイエス・キリストを殺していない、誰も罪を犯してなんかいない、罪はなかった、全部錯覚だ、死んではいなかった、実相的には彼らは何もやっていなかった。この世でのあなたたちの経験は実際に起きているのではない、仮想なんだ、これは寝床で見る夢のような現象だ。自分たちが眠っているという仮定で、想像の中で起きているだけだ。その事柄がまざまざと見えるだろうけど、それが実際に起きているわけではない。あんたたちは皆、今、ここ、天国の只中にいるのだ。
数知れぬ人々はその出来事のために罪悪感を覚えている。神の一人子を殺したので自分たちがその十字架を負うべきだという羽目になった、と教え込まれてきた。骨折り損の根も葉もない重荷だ。信じ込まれた架空にすぎない。もうこの肩の荷を下ろせばいい。
あの一連の出来事の真相からは、加害者も被害者というのも錯覚だと証明された。誰も危害を加えることができないということだ。加害・被害という現象は、危害を自分自身に加えた人がその罪を他人に擦り付けているというだけ。
よく聞け、考えてみな、罪の錯覚を見抜き、人々の歪んだ観点に加担しないことで、罪がなかったことを証明することができる。罪が犯されたように見える行為の間最中でも・・・これこそが無条件の愛というものだ、いいか、今言ったことをよく肝に銘じておけ。」
サタンが出鱈目を言っただけです。
これを本気でイエスだと信じる人が世界中にいるのですか(呆れ果てる)。
これらの言葉を、私は愛や奇跡であるとはとてもでは思えません。逆にそう思う人は永久に救いがないと思います。
以下はイエス・キリストが逮捕をされる前にゲツセマネで祈るところの聖句。
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マタイによる福音書26章36節
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そとのき、悲しみもだえはじめられた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしとともに目を覚ましていなさい。」少し進んで言って、うつぶせになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願どおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻ってご覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心がおこなわれますように。」再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻ってきて言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
偽イエスがでっち上げだと言った聖句が以下。
マタイによる福音書27章45節
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒につけてイエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガラリヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
ルカによる福音書第23章26節
十 字 架 に つ け ら れ る
人 々 は イ エ ス を 引 い て 行 く 途 中 、 田 舎 か ら 出 て 来 た シ モ ン と い う キ レ ネ 人 を 捕 ま え て 、 十 字 架 を 背 負 わ せ 、 イ エ ス の 後 ろ か ら 運 ば せ た 。 民 衆 と 嘆 き 悲 し む 婦 人 た ち が 大 き な 群 れ を 成 し て 、 イ エ ス に 従 っ た 。
イ エ ス は 婦 人 た ち の 方 を 振 り 向 い て 言 わ れ た 。 「 エ ル サ レ ム の 娘 た ち 、 わ た し の た め に 泣 く な 。 む し ろ 、 自 分 と 自 分 の 子 供 た ち の た め に 泣 け 。 人 々 が 、 『 子 を 産 め な い 女 、 産 ん だ こ と の な い 胎 、 乳 を 飲 ま せ た こ と の な い 乳 房 は 幸 い だ 』 と 言 う 日 が 来 る 。 そ の と き 、 人 々 は 山 に 向 か っ て は 、『 我 々 の 上 に 崩 れ 落 ち て く れ 』 と 言 い 、 丘 に 向 か っ て は 、 『 我 々 を 覆 っ て く れ 』 と 言 い 始 め る 。 『 生 の 木 』 さ え こ う さ れ る の な ら 、 『 枯 れ た 木 』 は い っ た い ど う な る の だ ろ う か 。 」
ほ か に も 、 二 人 の 犯 罪 人 が 、 イ エ ス と 一 緒 に 死 刑 に さ れ る た め に 、 引 か れ て 行 っ た 。 「 さ れ こ う べ 」 と 呼 ば れ て い る 所 に 来 る と 、 そ こ で 人 々 は イ エ ス を 十 字 架 に つ け た 。 犯 罪 人 も 、 一 人 は 右 に 一 人 は 左 に 、 十 字 架 に つ け た 。 〔 そ の と き 、 イ エ ス は 言 わ れ た 。 「 父 よ 、 彼 ら を お 赦 し く だ さ い 。 自 分 が 何 を して い る の か 知 ら な い の で す 。 」 〕 人 々 は く じ を 引 い て 、 イ エ ス の 服 を 分 け 合 っ た 。 民 衆 は 立 っ て 見 つ め て い た 。 議 員 た ち も 、 あ ざ 笑 っ て 言 っ た 。 「 他 人 を 救 っ た の だ 。 も し 神 か ら の メ シ ア で 、 選 ば れ た 者 な ら 、 自 分 を 救 う が よ い 。 」 兵 士 た ち も イ エ ス に 近 寄 り 、 酸 い ぶ ど う 酒 を 突 き つ け な が ら 侮 辱 し て 、 言 っ た 。 「 お 前 が ユ ダ ヤ 人 の 王 な ら 、 自 分 を 救 っ て み ろ 。 」 イ エ ス の 頭 の 上 に は 、 「 こ れ は ユ ダ ヤ 人 の 王 」 と 書 い た 札 も 掲 げ て あ っ た 。
十 字 架 に か け ら れ て い た 犯 罪 人 の 一 人 が 、 イ エ ス を の の し っ た 。 「 お 前 は メ シ ア で は な い か 。 自 分 自 身 と 我 々 を 救 っ て み ろ 。 」す る と 、 も う 一 人 の 方 が た し な め た 。 「 お 前 は 神 を も 恐 れな い の か 、 同 じ 刑 罰 を 受 け て い る の に 。我 々 は 、 自 分 の や っ た こ と の 報 い を 受 け て い る の だ か ら 、 当 然 だ 。 し か し 、 こ の 方 は 何 も 悪 い こ と を し て い な い 。 」そ し て 、 「 イ エ ス よ 、 あ な た の 御 国 に お い で に な る と き に は 、 わ た し を 思 い 出 し て く だ さ い 」 と 言 っ た 。 す る と イ エ ス は 、 「 は っ き り 言 っ て お く が 、 あ な た は 今 日 わ た し と 一 緒 に 楽 園 に い る 」 と 言 わ れ た 。
「ポール君」と偽のイエス・キリストは聖霊を冒涜したかどで裁かれるでしょう。
マタイによる福音書12章22節、22そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。 23群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。 24しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。 25イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。 26サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。 27わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。 28しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。 29また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 30わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。 31だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。 32人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
偽のイエスを信じて支持する人達も同様に裁かれるでしょう・・・・
マタイによる福音書12章33節
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである。善い人は、良いものを入れた蔵から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、ひとは自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
ルカによる福音書第3章21節
民 衆 が 皆 洗 礼 を 受 け 、 イ エ ス も 洗 礼 を 受 け て 祈 っ て お ら れ る と 、 天 が 開 け 、 聖 霊 が 鳩 の よ う に 目 に 見 え る 姿 で イ エ ス の 上 に 降 っ て 来 た 。 す る と 、 「 あ な た は わ た し の 愛 す る 子 、 わ た し の 心 に 適 う 者 」 と い う 声 が 、 天 か ら 聞 こ え た 。
ヨハネによる福音書第3章16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。
参照
キリスト教は悪魔崇拝者によって内部から破壊された。その歴史の詳細について。http://rapt-neo.com/?p=9309
キリスト教がミトラ教から誕生したという大嘘。ミトラ教は悪魔教であり、悪魔崇拝者たちが悪魔教の要素をキリスト教に混入していったのです。http://rapt-neo.com/?p=16597