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当ブログはほぼすべて長文になっております。あらかじめご了承ください。

チャネリングと悪魔降霊 『セスは語る』についての真実  

(加筆、修正あり)

 

チャネリングとは、スピリチュアル系でよく行われている霊との交信手段、降霊術です。

チャネリングをする人をチャネル、またはチャネラーと呼びます。

ラジオやテレビと同じように、人間の体を使って霊を受信し、人々に情報を与えます。

このような話をすると、そんな事はありえない、自作自演だろうと思う人がいるかもしれません。そのような詐欺師も中にはいると思います。

霊というものは本当に存在しており、架空の話ではありません。

チャネリングや自動書記、ウィジャボードを通して現れた存在の正体は、ほとんどが悪魔や悪霊であり、スピリチュアル系がいうような「スピリット」や「エンティティ」や、「宇宙人」、「大天使ミカエル」「ポジティブなエネルギーを持つ高次元にいる存在」と呼ばれるものではありません。

その「霊」は真実ではなく嘘を語っています。人間を救うためではなく、ミスリードをするために存在しています。

そしてそのチャネルはたいてい、生い立ちが幸せとは言えない人が多く、悪魔崇拝者に育てられた多重人格者である可能性もあります。

 

悪魔崇拝と多重人格について参照

悪魔崇拝者たちの多くが多重人格者であり、幼少期から虐待を受けてきたという現実。http://rapt-neo.com/?p=19219

RAPT | 日本の宗教に「神がかり」が多いという現実。彼らはなぜ自分の体に霊を招くことができるのか。http://rapt-neo.com/?p=19273

 悪魔崇拝についての幾つかの考察(2)http://rapt-neo.com/?p=9228

「チャネリングができる人」とは、「純粋にワクワクと生きてきた結果、高次元に繋がる事が出来た人」ではなく、
「魔術や超能力が身に着けられたらと夢を見て叶えた人」でもなく、
「毎日感謝をして幸せに生きてきた結果、天と繋がった人」でもなく、
「前世、来世の自分と本当に繋がった人」でもありません。
悪魔や死霊がその人に憑りついたのであって、「スピリチュアルな存在」とコンタクトを取るようになったわけではありません。

チャネルである彼らは、輪廻転生や「宇宙の叡智」等の嘘を語り、次々と嘘の上塗りをして生活をして生きていくしかないような人たちです。

或いは、チャネリングを通して現れる存在を、本物であり善良な存在であると信じ切っている人たちです。

彼らは人に「限りない自由」を説きながら、実は完全に自由などではない、自分たちの方が実は余程選択肢があって自由ではないかとすら思えるような事情を抱えていることが多く、他人から見て羨ましい人生である事はあまりないような気がしますが、その人のようになりたいでしょうか。

それとも生まれ変わったら、今度は自分もそのようになりたいでしょうか。

生まれ変わりを信じている人は多いようですが、輪廻転生は存在しないようです。

聖書には生まれ変わりについてはどこにも書かれていません。

 

「前世」はない。「輪廻転生」もない。その確固たる証拠。http://rapt-neo.com/?p=26215

偶像崇拝を強要し、輪廻転生はあると嘘をついた「釈迦」は、悪魔崇拝者だったのか。http://rapt-neo.com/?p=26253

 

彼らのようなチャネラーになるにはどうしたらいいのでしょうか。

これまでごく普通の幸せな人生を歩んで来た人が、ふと何かの縁で霊から情報を受けるようになるわけではありません。

チャネルと呼ばれる人たちは、なりたくてなった人はほとんどいないと思われます。

チャネリングは夢のある話ではありません。チャネルを始めたら最期、悪魔と繋がって生きなければなりません。

「チャネリングとはセスから始まった」と言われているようです。霊媒や降霊術、交霊会とよばれるものは昔からあったのではないのかと思うのですが。

 

(Wikipedia|チャネリングより転載)

1972年にジェーン・ロバーツ英語版(1929年 – 1984年)と夫のロバート・バッツ(1919年 – 2008年)が『セスは語る』(Seth Speaks) を出版したことから始まったと言われる

 

『セスは語るー魂が永遠であるということ』(ナチュラルスピリット社)

著者

ジェーン・ロバーツ

プロフィール

1929年5月8日生まれ。 2歳の時に両親が離婚、母親とともにニューヨーク州サラトガ・スプリングス市の祖父母のもとに育つ。

9歳でカトリック・スクールに転入、その後スキッドモア大学で英文学を学ぶ。

1954 年、画家のロバート・バッツと結婚。

1956 年以降、旧姓ジェーン・ロバーツのペンネームで SF 小品、短編小説、小説、詩を発表。

1963 年より自らの著作活動と並び、いわゆるチャネラーとして「セス」という存在からのメッセージを口述する。その内容は夫ロバート・バッツにより記録される。         

1966 年以降、自著 11 冊、セスの本 9 冊を出版。

1982年に甲状腺を患い、関節炎その他を併発して入院。

1984年9月5日、エルマイラ市内の病院にて死去。

 

『セスは語る』 は1972年にアメリカで出版され、1999年に日本で発売。

アメリカで40年以上売れ続け、ニューエイジの原点と言われているようです。

セスは、自分を「人格を有するエネルギー存在」と語っていますが、セスは著者やファンが語るような高い次元から来た存在でも、神秘的な存在でもありません。

セスはウィジャボードを通して現れ、やがてジェーン・ロバーツのチャネリングとして活動をするようになった悪魔、悪霊であり、スピリットガイドやエンティティと呼ばれる善良な存在ではありません。

そんなセスを、ロバーツは何一つ疑わず信じ、むしろスーパーヒーロー(『個人的現実の本質』序文より)、親友だと思い、「セスとジェーン・ロバーツが前世で知り合いだった」という作り話や、死後の世界の話や、魂についてや現実の創造などについて、彼女が55歳で亡くなるまで、セスのチャネルとなって最期まで語り続けていたようです。

 

このようなカルトに近い活動はイルミナティが関わっていることが多いのですが、

ジェーン・ロバーツについて虐待や多重人格やイルミナティの要員である噂は聞きません。

探せばこのようなデザインの本もありますが・・・。

商品の詳細商品の詳細「jane roberts」の画像検索結果

 

著者のプロフィールを見ると、(Wikipedia より)両親が離婚、子供の頃に母親が病気で世話をしなければならなくなる、母親が自殺未遂、一時期カトリックの孤児院に入ったりと環境は多少厳しかったようですが、特に彼女が悪魔崇拝者や多重人格者という事実も無く、普通の作家であったようです。

 

(以下こちらより転載)

ロバーツは、かなりまじめな人だったようですが、頑固だと評されることもあったようです。

これは、彼女がカトリック系の児童施設で厳しい教育を受けたことと関連していると言われます。

たとえば、ある時、彼女の書いた詩を見た神父が、その詩の書かれた紙を「異端」だとして燃やしてしまったことがあるそうです。そうした神父たちが彼女の人格形成に少なからず影響を与えたのではないかと考えられています。

もっとも、元々、カトリック系の教育を選んだのはロバーツ本人でした。公立学校に通っていた9歳のころ、彼女は途中からカトリック系の学校にどうしても移りたいと言い出したのだそうです。

公立学校の方がいいと考えていた母親も、娘の意志の強さに折れて転校を認めたようで、セスの言葉を借りれば、すでにこのころから彼女は頑固だったということになります。

ロバーツは 19 才でカトリック教会を脱会します。彼女自身は、たとえば「セス資料」のまえがきで彼女のキリスト教観を述べていますが、それは当時の一般的なアメリカ人にとっても、現在のわたしたちが聞いても、特に驚くようなものではないと思います。

 

ロブとわたしは伝統的な意味で見れば、信仰心が厚いなどとはとてもいえない人間でした。教会には、結婚式やお葬式に出席する以外、何年も行ったことがありませんでした。

わたしはカトリック信者として育てられましたが、大きくなるにつれて、自分の先祖たちの信仰していた神を受け入れることに困難を感じるようになりました。心の中で皮肉な声が「主も、ご先祖様と同じようにもう死んでしまっているんだよ」とささやいたりしたものです。

「天国」は子供のころ、わたしを精神的に支えてくれましたが、十代のころには有意義な生き方の指針として掲げられた薄っぺらな作りごとに見えました。

だって、たとえ父なる神が本当に実在したとしても、いったい誰が、そのへんにぶらぶらとすわって賛美歌など歌ってほしいと思ったりするでしょうか。それに、どこのどんな賢い神様が、こんなにたゆまぬ崇拝を要求するでしょうか。それは全くのところ、とても頼りにならない、ぞっとするほど人間的な神です。

選択肢のもう一方、「地獄の業火(ごうか)」というものも、それと同じくらい信じられないものでした。わたしたちの父や祖父たちの伝統的な神は、悪魔が他の不幸な死者たちを拷問にかけているというのに、明らかに良心の呵責(かしゃく)もなく、諸聖徒たちと共にのんびりとすわっているだけなのです。

「そんな神なんて、いらない!」とわたしは心に決めました。そして、もう「彼」のことを自分の友達だなんて思いませんでした。

この点についていえば、話によると「彼」も自分の息子キリストのことを大切にしすぎることはなかったようです。でも、キリストのことは尊敬できるとわたしは思いました。彼はこの地上にいて、実際の様子がどうだったのか知っていたわけですから。

その後、20 才にもならないうちに、こんな古めかしい神や聖母マリアや聖者たちの聖餐式(せいさんしき)は卒業していました。

天国と地獄、天使と悪魔は処分されていました。わたしが「自分」と呼んでいる、この特定の化学物質と原子の集まりは、もう決してこんな「わな」── 少なくとも「わな」だと見分けることのできるもの ── にひっかかることはあるまいと思ったものです。

(転載ここまで)

 

セスのチャネルになるまでの経緯が以下の通り。

 

こちらから転載・SETH MATERIAL 原文より邦訳)

…知っているかぎりにおいて、それまでの自分の人生で心霊的な体験などは一度もありませんでしたし、他にそんな体験をした人なども一人として知りませんでした。

 

関連画像

 

わたしのバックグラウンドで 1963 年9月9日の、あの驚くような晩のための準備になるようなことは何一つなかったのです。しかし、その晩の出来事がセスとのコンタクト、そしてセス・セッションを開くきっかけとなったのは確かです。

すてきな秋の宵でした。夕食の後、わたしはいつものように、詩を書くべく、リビングルームの古いテーブルに向かってすわりました。ロブは3部屋隔てた、奥の仕事部屋で絵を描いていました。わたしはペンと紙を取り出し、その日、9杯目か10 杯目になるコーヒーのカップとたばこと共に、自分の「定位置」に落ち着いたところでした。わたしたちの猫ウィリーは青い毛布の上でうたた寝をしていました。

そこで、いわば、薬物を使わない幻覚体験のようなものが起こったのです。

仮に誰かがわたしにこっそりと LSD を投与したなどということがあったとしても、その体験がそれ以上に奇怪なものになるようなことはなかったことでしょう。1分1分と時間が経過していく間中、わたしの頭の中に斬新な観念がまるで突拍子もない雪崩(なだれ)か何かのように、ものすごい力で沸き起こってきました。

それは、あたかも頭蓋骨が一種の受信ステーションになって、とても耐えられないほどの強さにまでボリュームを上げたような感じでした。

この「チャンネル」を通じては、観念だけでなく、感覚も増大され、脈打つようにやってきました。波長がピタリと合わされ、電源がオンになったようになり ── まあ、どんな表現でもかまわないのですが ── 信じられないようなエネルギーの源泉につながっていました。ロブを呼ぼうと叫ぶ時間もなかったのです。

それは、あたかも、この物質世界が実際のところはティッシュペーパーのように薄っぺらなものであり、それが大音響と共に引き裂かれ、その向こうに隠されていた、現実界の無限に拡がる次元の中にわたしが突然、放り出されたかのようでした。

わたしの肉体は机に向かってすわり、手は、頭に閃(ひらめ)く言葉や観念を狂ったようになぐり書きしていたのですが、同時に、ほかのどこかにいるような、さまざまなものを通り抜けて旅をしているような感じがしました。

垂直に落下して一枚の葉っぱを通り抜け、一つの宇宙全体がすっかり開け放たれているのを発見したかと思うと、そこから抜け出て、また新たな景観の数々へと導かれていくというような感じだったのです。

わたしが忘れることができないよう、知識がわたしの身体の細胞に植え込まれたような感じがしました。「内臓的知識」あるいは「生物的な精神性」とでも言えるものでしょうか。

それは「知的」な知識と言うよりは「感じる」こと、「知っている」ということでした。それと同時にわたしは、それまではすっかり忘れていたのですが、その前の晩に見た夢でこれと同じような体験をしたのを思い出しました。そして、その両方が結びついているのがわかったのです。わたしが忘れることができないよう、知識がわたしの身体の細胞に植え込まれたような感じがしました。

それと同時にわたしは、それまではすっかり忘れていたのですが、その前の晩に見た夢でこれと同じような体験をしたのを思い出しました。そして、その両方が結びついているのがわかったのです。

気がついたときは、明らかに、このひとまとまりの奇妙なメモの題名と目されるものを自分が書いているところでした。

それは「観念の建造としての物質世界」というものでした。

この中で紹介された数々の概念は後にセス資料が発展させていくことになるのですが、この時のわたしにはそれを知る由もありませんでした。

セッションを開くようになってまだ間もないころ、セスは一度、彼がわたしに初めてコンタクトを取ってみようとしたのがこの時だったのだと語りました。わたしにわかっているのは、もし、この晩に自分がセスとして話し始めたのであったとしたら、それはもう、恐怖の念にかられてしまっただろうということです。

その時の状況では一体、何が起こったのかわからなかったのですが、それでも、自分の人生が突然変わってしまったということは感じました。「啓示」という言葉が脳裏をよぎりました。それを頭から振り払おうとしたものの、やはり、その言葉はピッタリくるものでした。ただ、その言葉に含まれた、妙に神秘的な意味合いが気になったのです。

わたしは、自分自身の仕事におけるインスピレーションというものには馴染みがありましたが、これは普通のインスピレーションと比べたら月とスッポンほどの違いがありました。わたしが「受信」した数々の観念もまた、驚くようなもので、現実というものに対するわたしの概念を覆(くつがえ)してしまいました。

(転載ここまで)

 

これは悪魔が突然高次元から来た者と思わせ物凄い力でロバーツ氏に憑りついたのだと思われます。

(その出来事が起きた1963 年9月9日が666を連想させる気がするのは私だけでしょうか。)

その後、彼女はその正体を突き止めようと、ウィジャボードを使ってその霊とコンタクトを取り始める。

 

ウィジャボードとは西洋版「こっくりさん」で、ボードを使って霊を呼び出し、会話をするという代物です。

 

ウィジャボードはAmazonなどでも売ってますが、

試してはいけません。誘われても、のってはいけません。そんな人とは付き合ってはいけません。

悪魔や悪霊を、あまり軽く考えて遊ばない方が良いと思います。

悪魔、悪霊は本当に存在しています。たとえ遊び半分で試してしまったとしても、運が良ければ憑りつかれたりせずに済むでしょう。神様に祈った方が良いかもしれません。

 

このような動画を見つけました。

 

Scariest Ouija Board Demon ZOZO Possessed Girl |YouTube

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2分ほどの動画ですが、怖いのがとても苦手な方などは、観るのはお控え下さい。

 

こんなものを通して現れる霊は悪魔、悪霊でしかありません。時々は善い霊も現れるということはありません。そのように自称している霊がいたら嘘だと思って間違いありません。サタンはいつも嘘つきです。

セスも同様に、自分が善良な存在であるかのように語っています。

 

(『セスは語る』はじめに より引用)

この書は「セス」と呼ばれる存在によって書かれたものです。セスは,みずからを「人格を有するエネルギー存在」であると述べ、もはや物質的な形に心を奪われることがないと言います。セスは私を通してすでに七年以上も、週二回のペースで行われるトランス・セッション[ジェーンがトランス状態に入り、セスの媒体となって行われる対話の会]の場で語り続けています。

しかし、わたしのまさに超自然的とも言える体験が実際に始まったのは、1963年9月のことでした。その晩、私は腰を据えて詩を書いていました、すると突然、私の意識が私の体を離れたのです。そして、それまで思いつきもしなかったような驚くべき知識や概念が、つぎつぎと矢継ぎばやに私の脳裏に押し寄せてきたのです。

(中略)

その体験をきっかけに、私は精神と肉体の超自然的あるいは霊的なはたらきを研究するようになり、それを一冊の本にまとめる構想を立てました。

それと並んで1963年の暮れから、夫のロブ[ロバートの愛称]私はウィジャボード[西洋の占い版で、コックリ板のようなもの]を使った実験を始めました。そのセッションを二度三度繰り返すうちに、ウィジャボードのポインターは意味のある内容をつづるようになったのです。

そしてそれらは、「セス」と名乗る人格存在から送られていると告げるのでした。

ロブも私も、超能力や霊能力の類とはそれまで縁がなかったので、ウィジャボードが何らかの反応を示すようになってからも、そうした答えは全て自分の潜在意識からやってくるものと私は考えていました。

しかし、ほどなく私はまるで何かに駆り立てられるように、声を大にしてものを言わなくてはと感じるようになりました。それからひと月もたたないうちに、私は自分をトランス状態にして、セスに代わって話をするようになっていたのです。

 

ジェーン・ロバーツがトランス状態に入り、セスとして語っている動画が以下。

Jane Roberts – The Seth Video – Part 1/3| YouTube

霊的に敏感な方は具合が悪くなるかもしれません。

そのような方は注意してご覧ください。体調を悪くしても一切の責任を負いかねます。

初めはジェーン・ロバーツが語ります。

セスが凄い声と発音で話すので、何を言っているのかわかりにくいです。

 

この動画を観ても、ロバーツの自作自演には見せません。

セスからロバーツに戻るときは、一瞬で戻ります。(Part 2/3, Part 3/3)

(セスに変わる瞬間は撮られていないようですが。)

Jane Roberts-The Seth Video-Part 2/3

(1:33頃にセスからジェーン・ロバーツに戻ります。)

(最後にセスからジェーン・ロバーツに戻ります。)

 

セッションは楽しそうな雰囲気ですが、セスは高い次元の世界から人間達をサポートするためにやって来た愉快な仲間ではありません。

 

セス情報 概要(こちらより転載)

君達の観念が現実界を形作る。君達一人一人の観念と連帯した観念だ。さて、観念の強さというものが極めて大事だ…。

ごく簡単に言えば、みんなが自分に好意を持って優しくしてくれると信じれば、そうなるだろうし、世界中が敵だと信じれば、君達の体験上はそうなるだろう。そして、仮に…、もし、自分は22歳から下り坂だと信じるのであれば、そうなろうというものだ。

また、自分が今、貧しく、今後もずっと貧しくあり続けると信じるのなら、君達のする体験は君達自身に対して、それを証明するだろう。君達が自分の観念に出会う時、その観念は鏡に映った君達自身の顔をしている。その観念達が君達の姿を形作るのだ。自分の観念から逃れることはできない。しかし、その観念は君達が自身の体験を創る手段なのだ。

大事なのは、自分が説明のつかないもののなすがままになっているわけではないということを君達がここで悟ることだ。自分では全くどうしようもない出来事、それが君達の表現で言う心理的なものであろうと物理的なものであろうと、そうした出来事にもてあそばれているわけではないということに気がつくことだ。

前にも言ったように、君達が、今の生活は自分の幼少期の出来事によって引き起こされたと信じようが、それと同じくらい自分ではどうすることもできないと感じている前世が原因だと考えようが、大した違いはない。君達に起こる出来事、君達の人生、体験は君達の現在の観念によって生じている。観念を変えれば君達の人生も変わる。

(転載ここまで)

 

こちらより転載)

…実験を繰り返していくにつれて、彼女は自らの意思でトランス状態に入り、その間、「セス」という存在のメッセージを話すようになったのです。夫のロバート・バッツ(ロバーツの苗字は旧姓かつペンネーム)は、そのメッセージを書き取り、一回の口述会(セッション)ごとにまとめました。こうして蓄積された記録は「セス資料」と呼ばれます。

その資料は主に1970年代以降、一連の書籍として出版され、世界各国で大きな反響を呼びました。口述筆記を通じてセスが生み出した本は販売部数700万部以上に達し、翻訳された言語は11カ国語を超えます。

セスは、こうして国際的に高い評価と支持を受けるようになった、文字どおり「スピリチュアル」な教師です。人々に活力を与える彼のメッセージはニューエイジという潮流を世に送り出す推進力となりました。

セスは、人間に潜む最大限の可能性、魂は永遠であるということ、そして、私達が自らの観念に従って私達自身の現実界を創っているのだというコンセプトを明快に示してくれます。その言葉は地球的な規模で拡がり、人々の生活に影響を与えました。

時代の淘汰を乗り越え、セスの本は今日に至っても、人間の潜在能力を最も包括的に示すと同時に、心の中の世界を最も鮮やかに描いたガイドマップでもあります。

人生の中で大事な質問に対する答えがほしい場合、生活の状況をもっとよくしたい場合、セスは、どうしたらいいのか教えてくれます。それは、あなたの中にある、パワーと知恵の巨大な源泉にあなた自身が接し、それを使う方法です。

(転載ここまで)

 

セスからの言伝は、書きとめられた「観念構築体としての物理的宇宙」の内容を引き継ぐ形で始まりました。意識の拡大という私にとって初めての超自然的体験は、今回セスが私と接触を図ろうとした初の試みだったことが後になってわかりました。

私たちが「セス情報」と呼ぶセスからのことづては実に多項目に及び、物質の本質から、時間、現実、神の概念、確率的偶然の体系化にある宇宙、健康管理、そして輪廻転生にまで至ります。

交信が始まった当初から、私たちはメッセージの質の高さにことごとく圧倒され、好奇心を掻き立てられました。それゆえ私たちは、セスとの交信を続けることに決めたのです。

(『セスは語る』はじめに より引用)

 

 

その「圧倒されるほどの質の高い情報が詰まった」本の中で、セスは「キリストは磔にされていなかった、狂信者がしたことだ」などとトンデモを語っています。

このような存在は必ずと言っていいほどに聖書を否定します。

 

(『セスは語る』より引用)

さて・・・・・・あなた方の啓発に役立つと思われる情報をお伝えしましょう。

キリストについてですが、歴史に登場するキリストは磔になっていません。・・・・・・ここで少しお待ちいただかねばなりません。(間)

キリストはあのような形で死ぬことを意図していませんでした。ところが、ほかの人々は予言をすべての点で成就させるには、磔上死が不可欠であると感じたのです。

しかしながら、キリストはその場面には参加していません。(間)キリストを犠牲者に仕立て上げるという陰謀はユダも一役買って存在しました。人身御供に選ばれた男は薬を飲まされており、そのため十字架を背負って歩く際にも助けが要ったのです(「ルカによる福音書」23章を参照)

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ルカによる福音書23章 26節

人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出てきたシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

 

―彼は自分がキリストなのだと言い含められていました。

身代わりの男はそれを信じ込みました。彼は惑わされた一人に違いないのですが、彼本人もまた歴史に登場するキリストではなく、自分こそが古代ユダヤの予言を成就する人物であることを信じたのです。

マリアは、みずからを彼女の息子であると思い込んだその男をたいそう不憫に思い、それでわざわざ姿を見せました。マリアは深い憐れみからその場に現われたのです。この陰謀に加担した集団は、ユダヤ人の特定の一派がキリストを十字架に掛けたように見せることを目論んだのであって、すべてのユダヤ人がその「責めを負う」ことになろうとは夢にも思っていなかったのです。

(10時0分に間。)これは説明が難しく、私にとっても紐解くことが至難です・・・・・・。キリストの墓がからであったのは、同じ集団が亡骸を運び去ったからです。マグダラのマリアはキリストに会っていますが、それは直後のことでした(「マタイによる福音書」28章)。(長い間。)キリストは、偉大な超能力者或いは霊能者でした。それで、キリストは自分の体に傷を生じさせたり、肉体をまとった姿や体外離脱の姿で、弟子たちの前絵にその身を現すことができたのです。

(中略)

ペテロは「自分はキリストを知らない」と誓うことで、キリストとの関係を3度否定しましたが、それは例の人物がキリストでないことに気づいていたからです。「ペテロよ、なぜ私を見捨てたのですか」という嘆きは、薬漬けにされて自分がキリストであると信じ込んでいた男から出た言葉なのです。

(中略)

…しかし、キリストはみずからの遠隔透視の能力によって、それらの出来事が何らかの形で起きることや、その成り行きとして生じる確率的偶然のドラマを知っていたのです。

 

・・・・・と他にも延々とインチキが書かれていてキリがない。

 

ではなぜペテロは鶏が鳴いた後に泣いたのか。それに「ペテロよ、なぜ私を見捨てたのですか」とは言っていません。

ロバーツ夫妻は間違いに気づかなかったようです。聖書をあまり読んでないものと思われます。

セスが語っていた聖句は以下。

 

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう。』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガラリヤへ行く。」

するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。

イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

(マタイによる福音書 第26章31節ー35節)

 

ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄ってきて、「あなたもガラリヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」といった。

ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこでペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに行った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」

そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

(マタイによる福音書 26章69節-75節)

 

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。

そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
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(マタイによる福音書 27章45節-50節)

さらにセスは『個人的現実の本質』の中で、新約聖書のうち、一部は偽物であると主張。

(『個人的現実の本質』セッション674より転載)

福 音 書 の 一 つ は 偽 物 で す 。 つ ま り そ れ は ほ か よ り 後 に 書 か れ た も の で 、 出 来 事 は ね じ 曲 げ ら れ 、 実 際 と は 完 全 に 異 な る 背 景 で 起 こ っ た よ う に 見 せ か け て い る も の も あ り ま す 。 そ れ で も 、 キ リ ス ト の メ ッ セ ー ジ は ア フ ァ メ ー シ ョ ン の 一 つ で した。

( わ た し が も の 問 い た げ に 顔 を 上 げ て 見 る と 、 ト ラ ン ス 状 態 の ジ ェ ー ン は 口 を つ ぐ ん だ 。「 福 音 書 の ど れ が 偽 物 な の か 、 お た ず ね した い の で す が 。 そ れ に つ い て き っ と 問 い 合 わ せ が あ る と 思 う の で 。 」 )

マ ル コ や ヨ ハ ネ の で は あ り ま せ ん 。 い ま は 明 言 し た く な い 特 別 な 理 由 が あ る の で す 。

( わ た し は い く ら か 渋 々 と 、 「 わ か り ま し た 」 と 言 っ た 。 )

( 間 ) 当 時 、 キ リ ス ト は 歴 史 に ま で 影 響 が 及 ぶ よ う な や り 方 で人 間 の 意 識 を 一 つ に し ま し た 。 キ リ ス ト 意 識 は 孤 立 し て は い な か っ た の で す 。 わ た し は い ま あ な た 方 の 観 点 か ら 話 し て い ま す 。 そ れ で そ の 同 じ 意 識 が あ な た 方 の す べ て の 宗 教 を 生 み 出 し ま した 。 そ の 多 様 な 枠 組 み を 通 し て 、 異 な っ た 時 代 の 人 々 が 自 ら を 表 現 し 成 長 す る こ と が で き ま し た 。 ど ん な 場 合 も み な 、 宗 教 は そ こ に 普 及 し て い る 観 念 を 足 が か り に 、 そ の 時 代 の 格 言 を 通 し て 語 ら れ 、 広 が っ て い き ま し た  ・・・・・・

(中略)

( 唐 突 に 声 を 高 め て ) こ れ で セ ッ シ ョ ン を 終 え ま す 。 あ な た 方 二 人 に 心 か ら の あ い さ つ を 送 り ま し ょ う 。 ご き げ ん よ う 。

( 「 あ り が と う 、 セ ス 。 最 高 に 興 味 深 い も の で し た 。 お や す み な さ い 。 」 1 2 時 2 分 終 了 。

セ ッ シ ョ ン の 後 で ジ ェ ー ン が ち ょ っ と し た 実 験 を 試 み た 。 わ た し が彼 女 に 福 音 書 に つ い て 自 分 の 知 っ て い る わ ず か ば か り の こ と を 話 し 、 「 偽 物 」 の 福 音 書 が マ タ イ と ル カ の ど ち ら な の か 、 彼 女 の 霊 能 力 で 決 着 を つ け た ら ど う だ ろ う と 言 っ た の だ 。

ジ ェ ー ン は 大 し た 苦 労 も な し に す ぐ 、 そ れ は マ タ イ の だ と 言っ た 。 彼 女 は 自 分 が な ぜ そ の 答 え を 思 い つ い た の か わ か ら な か っ た し 、 そ れ 以 上 追 求 し よ う と も し な か っ た 。 ま た そ れ が 必 ず し も セ ス か ら の 、 あ る い は セ ス を 通 し て の 回 答 と は 限 ら な い と 彼 女 は 言 っ た 。 一 般 に は 「 マ ル コ に よ る 福 音 書 」 が 最 初 に 書 か れ た と 考 え ら れ て い る 。

そ れ ら が 作 成 さ れ た 年 代 は す べ て 正 確 に 近 い 。 聖 書 学 者 の 多 く は 、 福 音 書 が 書 か れ た の は 西 暦 2 9 年 か 3 0 年 の キ リ ス ト の 没 後 か ら か な り 時 代 を 下 っ た 西 暦 6 0 年 か ら 1 0 0 年 の あ い だ と 考 え て い る 。 最 近 の さ ま ざ まな 主 張 や 証 拠 に よ っ て 、 「 マ ル コ に よ る 福 音 書 」 〔 セ ス は 本 物 と 断 言 し て い る 〕 の 執 筆 は か な り 早 く 、 西 暦 3 5 年 に は な さ れ て い た と す る 説 が 有 力 視 さ れ て い る 。 当 然 こ れ は キ リ ス ト が 生 き て い た 時 代 に か な り近い。)

(転載ここまで)

 

この後、その事について追究することはありませんでした。この章で話は終わりました。

マタイの福音書のどこが偽物なのかわかりません。

ねじ曲げているのはあなたですよ。

 

薬を飲まされた狂人が自分をキリストと勘違いしただけだと言いふらす悪魔・・・・・・。

そうなんですかー。

よくそんな嘘が何千年と続きましたね・・・・・・

世界中で磔の作り話がここまで広がって信じられて。

イエス・キリストは実は死んでいないから、イエス・キリストの子孫も存在しているという事ですか。

キリスト教徒を迫害していたパウロはどうして悔い改めたのでしょうね。イエス・キリストは本当は生きているのに、隠れて死んだふりをして、超能力、幻覚、幻聴を送って騙したのでしょうか、嘘は罪のはずですが。

 

使徒言行録第9章1節~19節

サウロ の 回心 (使徒 22 6― 16、 26 12― 18)

1 さて、 サウロ は なおも 主 の 弟子 たち を 脅迫 し、 殺そ う と 意気込ん で、 大 祭司 の ところ へ 行き、 2 ダマスコ の 諸 会堂 あて の 手紙 を 求め た。 それ は、 この 道 に 従う 者 を 見つけ出し たら、 男女 を 問わ ず 縛り上げ、 エルサレム に 連行 する ため で あっ た。

3 ところ が、 サウロ が 旅 を し て ダマスコ に 近づい た とき、 突然、 天 からの 光 が 彼 の 周り を 照らし た。 4 サウロ は 地 に 倒れ、「 サウル、 サウル、 なぜ、 わたし を 迫害 する のか」 と 呼びかける 声 を 聞い た。 5「 主 よ、 あなた は どなた です か」 と 言う と、 答え が あっ た。「 わたし は、 あなた が 迫害 し て いる イエス で ある。 6 起き て 町 に 入れ。 そう すれ ば、 あなた の なす べき こと が 知らさ れる。」 7 同行 し て い た 人 たち は、 声 は 聞こえ ても、 だれ の 姿 も 見え ない ので、 もの も 言え ず 立っ て い た。 8 サウロ は 地面 から 起き上がっ て、 目 を 開け た が、 何 も 見え なかっ た。 人々 は 彼 の 手 を 引い て ダマスコ に 連れ て 行っ た。 9 サウロ は 三 日間、 目 が 見え ず、 食べ も 飲み も し なかっ た。

10 ところ で、 ダマスコ に アナニア という 弟子 が い た。 幻 の 中 で 主 が、「 アナニア」 と 呼びかける と、 アナニア は、「 主 よ、 ここ に おり ます」 と 言っ た。 11 する と、 主 は 言わ れ た。「 立っ て、『 直線 通り』 と 呼ば れる 通り へ 行き、 ユダ の 家 に いる サウロ という 名 の、 タルソス 出身 の 者 を 訪ねよ。 今、 彼 は 祈っ て いる。 12 アナニア という 人 が 入っ て 来 て 自分 の 上 に 手 を 置き、 元 どおり 目 が 見える よう に し て くれる のを、 幻 で 見 た の だ。」 13 しかし、 アナニア は 答え た。「 主 よ、 わたし は、 その 人 が エルサレム で、 あなた の 聖なる 者 たち に対して どんな 悪事 を 働い た か、 大勢 の 人 から 聞き まし た。 14 ここ でも、 御名 を 呼び 求める 人 を すべて 捕らえる ため、 祭司 長 たち から 権限 を 受け て い ます。」 15 する と、 主 は 言わ れ た。「 行け。 あの 者 は、 異邦人 や 王 たち、 また イスラエル の 子 ら に わたし の 名 を 伝える ため に、 わたし が 選ん だ 器 で ある。 16 わたし の 名 の ため に どんなに 苦しま なく ては なら ない かを、 わたし は 彼 に 示そ う。」

17 そこ で、 アナニア は 出かけ て 行っ て ユダ の 家 に 入り、 サウロ の 上 に 手 を 置い て 言っ た。「 兄弟 サウル、 あなた が ここ へ 来る 途中 に 現れ て くださっ た 主 イエス は、 あなた が 元 どおり 目 が 見える よう になり、また、 聖霊 で 満たさ れる よう にと、 わたし を お 遣わし に なっ た の です。」 18 する と、 たちまち 目 から うろこ の よう な もの が 落ち、 サウロ は 元 どおり 見える よう に なっ た。 そこで、 身 を 起こし て 洗礼 を 受け、 19 食事 を し て 元気 を 取り戻し た。

 

他にも、「磔にされるキリストの身代わりをユダが手配した」等、聖書やキリスト教について延々トンデモが書かれているのですが、挙げたらキリがないので、気になる方は『セスは語る』を書店で購入をするなどして自分で読んで下さい。しかしそのような本を手にする事は、悪霊を連れてくる事と同じことだと思われますのであまりお勧めしません。

「seth jane roberts」の画像検索結果

 

他にも検索すればWikipedia/Criticismの欄や動画のコメントや検索結果などでも否定的な意見は見つかります。

(Demon Possession, Anti Catholic Hate Books…… etc)

Jane Roberts’ Seth Speaks is Anti-Catholic Hate Books – Allowed By The Media

“Seth is demon…… demon from hell” (動画より)

国内ではほとんど批判意見が見つかりません。日本にキリスト教徒があまりいない事や、天使や悪魔などの存在に馴染みないことも関係しているかもしれません。

それでもやはり人気の方が高いようです。

 

「ジェーンのような人がなぜ病気になったのか」と不思議がる人がいるようですが、私から見るとスピリチュアル系の人たちはあまり健やかそうには見えません。

彼女は何年も悪霊を取り込んでいたようなものなので、そのような毎日を繰り返していたら健康を損なっても何も不思議ではないと思います。

ジェーン・ロバーツの病気の原因は色々とあったのでしょうが、ジェーン・ロバーツが本当に高次元の存在のセスの高い波動やエネルギーというものを受け続けていたというのなら、55歳で亡くなる事は無かったでしょう。

 

スピリチュアル系の人達は、健康についていつも原因を観念に求めます。

それを自分が病気になれば、「自分の観念がどこか間違っている」、「“病気という幻想 ”を頑なに信じているのかもしれない」と気に病み、

誰かが病気になれば、「“ 引き寄せの法則 ” により、あの人が自ら病気を引き寄せた」、「あの人の(観念の)どこかが間違っていたのでは」「これはあの人に決められていた運命なのか」、「こうなる事を生まれる前から決まっていたのか」、「あの人が死ぬ時期を選んだのだろうか、なら自分には出来る事などないのだろうか」などと考えるようです。

悩むことや気遣いが違う気がします。

「人は自分の死ぬ時期を決めている、全てを自分で選んでいる」と言う人がいますが、そんな事はありません。

酷い事故に遭っても、残酷に殺されても自分で死期を選んだというのでしょうか。それもその人のカルマの解消だと言うのでしょうか。

輪廻転生や前世のカルマの解消などは悪人に都合の良い理論ではないのかと疑います。

死後の世界についても、「生まれ変わるかどうかを自由に選択が出来る」、「前世の友人、家族のお迎えがある」などと語っていましたが、それを信じて亡くなった人がその通りだったかどうかは死人に口なしです。

病院で亡くなったジェーン・ロバーツは死後、きっとセスの言う通りになるのだとか、「あの世」で「親友のセス」に再会出来ると思ったら、

Ha.

「騙された・・・!」などと恐ろしい目に遭っていなければ良いのですが。

チャネリングなどで「宇宙の真実」などと言っては嘘を言い広めると言う事は、神に反逆をして、悪魔に仕えた事と同じですので、

スピリチュアル系に従っている人たちは、死後、スピリチュアル系から教わったことはほとんど全て嘘であり、それまでお金をかけて身につけたことや学んだことは全て無駄だったと気が付き、

それまで天使や神や、スピリットだと信じていたものの正体が悪魔だとその時に初めて分かり、最期は地獄へ連れて行かれてしまうのかもしれません。

そのように話しても、スピリチュアル系を信じ切っている人たちは、そんなもの存在しない、すべて幻想だ、信じた事の表れだ、自分の現実を創っているのは自分だから、自分はそんな世界を信じていないから、そのようなことになど絶対にならない、他人にもそんな「恐れを抱かせるような話」は言わない、などと言って頑なに否定するのかもしれません。

霊媒師は、既に亡くなった人を降霊させ、「あの世」の話をさせたりしていますが、そのような話はたいてい嘘だと思われます。

聖書によると死者を話をすることは許されていないようです。亡くなった誰かの霊が話し始めたとしたら、それはどこかの悪霊が嘘をついているか、その人が生きている時に周りをうろついていた悪霊が詳しい話を語っているものと思われます。

あなたもチャネリングなどで死者と対話、交流ができるという人は要注意です。

あの世について嘘をついて騙し、人々を誤った方向に導く可能性があります。

 

ジェーン・ロバーツが死後どこへ行ったのか、天国へ行ったのかどうかは、誰にも簡単にわかる事は出来ません。霊媒師に高いお金さえ払えば知る事が出来るわけではありません。

ちなみにセスのディクテーションを務めていた夫のバッツ氏は、その後も画家として活動・再婚、 セスの本も続いて数冊出版し、2008年死去。

ロバート・バッツ 自画像

バッツ氏も死後どこへ行ったのかは、誰にもわかりません。

セスと仲良く再会・・・・は、ないでしょうね。その時真実を知らされるでしょう。

 

そして長い歳月記録された、膨大なセスの資料や、セスの出版物は、

なぜかイェール大学の図書館に保管されているそうです・・・・・・。

 

スカル・アンド・ボーンズのエンブレム

 

これらの本を素晴らしい本を思っているファンが未だに多いのか、どれ程の人が信じているのか、いまいち把握ができませんが、このような本は利用しない方が良いと思います。このような本は嘘ばかりで、ほとんどが聖書に反した内容で、それらの教理に従う事は神に反逆をしたも同然で、とても最後までよい人生を送れるとは思えません。

別にいいじゃないか、悪魔だなんて馬鹿馬鹿しい、自分は神や聖書よりセスを信じると思うならご自由にどうぞ・・・・・・。

 

チャネリングなどを通して表れる存在は、宇宙の真実を伝える不思議で神秘的な異世界の友達のような存在ではありません。その逆です。

チャネリングなどを通して宇宙の真実を伝えるような高次元、異次元の仲間や先生はどこにもいません。

スピリチュアル系の人たちはよく「ワクワクすること」と言いますが、彼らがスピリチュアルが嘘だと気付かずに、ワクワクと自分たちが信じたことを行っているだけです。

嘘を嘘だと知らないで、ワクワクしようとポジティブに生きようと何の意味もありません。

ではあのチャネルも嘘だという事か、と思い浮かぶ人がいるなら、それはその通りです。チャネリングを通した霊的存在は、皆仲間同士だそうです。

(そう言いながら実は中身は皆同じ存在かもしれません。)

 

チャネリングは誰でもできる!などと言う人がいるようですが何を考えてるんでしょうか。

沢山の人に、いつも自分のそばに悪霊が憑りついているような人生を歩ませるつもりでしょうか。

本当に困った時や苦しんだ時に、その異次元の親友は救ってくれるとは思えません。

チャネルを通して現れる存在が天使のような存在なら、どうしてチャネルが病気のようであったり、仕事でトラブルを起こしたり、(雲隠れをしたように)今や活動状況が不明であったりするのでしょうか。

「全ては完璧だ」と語りながら、聞いているとカチンとくることを言う人も多いとはどういう事でしょうか。その不愉快な現実の原因は自分の観念にあるのでしょうか。そんなに完璧な毎日を過ごせている人がいるとは思えません。

そう思うから完璧にならないのでしょうか。違うと思います。

彼らに憑りついているのは悪霊です。悪魔です。偽物の霊です。天使を装った、サタンの霊界から来た嘘つきです。

彼らはいつもセッションなどで楽しそうに語っています。さも「このように皆さんにお伝えするのが何よりの喜び」であるかのように。

しかし彼らの喜びは、彼らが「地球の皆さんのために真実の情報を(シェアリングなどと言って)提供していること」にあるのではなく、人間達をまんまと騙せていることがワクワクと楽しくて仕方がないことにあるのです。騙されないようにして下さい。

 

ウィジャボードは悪霊を呼び出す為のツールです。

そのウィジャボードから現れたセスも、例外なく悪魔、悪霊です。

悪魔、サタンは現実に存在します。架空の話ではありません。

 

ジェーン・ロバーツはセスを悪霊だと疑いもしなかったようです。セスの話や、セスのチャネルとして生活をしていることに感動もしていたようです。

ジェーン・ロバ―ツは病気になり入院をした後も病院でセスのチャネリングを行い続け、セスの「死後の世界」についての話などを信じて病院で亡くなりましたが、スピリチュアル系の嘘の教理を信じていた人達は死後、真実を知らされることになるでしょう。

スピリチュアル系はよく「スピリットガイドを味方につける」ことについて語りますが、そのような存在はたいていは悪魔、悪霊から来るものです。

「ガイドに従う」等と聞くと、自分が天使や妖精を側に引き寄せ始めることであるかのようにワクワクする人がいそうですが、そのような存在は神から来たものではありません。

新約聖書 ヨハネの手紙 一 第4章1節~6節
偽 り の 霊 と 真 実 の 霊

1 愛 す る 者 た ち 、 ど の 霊 も 信 じ る の で は な く 、 神 か ら 出 た 霊 か ど う か を 確 か め な さ い 。 偽 預 言 者 が 大 勢 世 に 出 て 来 て い る か ら で す 。 2 イ エ ス ・ キ リ ス ト が 肉 と な っ て 来 ら れ た と い う こ と を 公 に 言 い 表 す 霊 は 、 す べ て 神 か ら 出 た も の で す 。 こ の こ と に よ っ て 、 あ な た が た は 神 の 霊 が 分 か り ま す 。

3 イ エ ス の こ と を 公 に 言 い 表 さ な い 霊 は す べ て 、 神 か ら 出 て い ま せ ん 。 こ れ は 、 反 キ リ ス ト の 霊 で す 。 か ね て あ な た が た は 、 そ の 霊 が や っ て 来 る と 聞 い て い ま し た が 、 今 や 既 に 世 に 来 て い ま す 。 4 子 た ち よ 、 あ な た が た は 神 に 属 し て お り 、 偽 預 言 者 た ち に 打 ち 勝 ち ま し た 。 な ぜ な ら 、 あ な た が た の 内 に お ら れ る 方 は 、 世 に い る 者 よ り も 強 い か ら で す 。 5 偽 預 言 者 た ち は 世 に 属 し て お り 、 そ の た め 、 世 の こ と を 話 し 、 世 は 彼 ら に 耳 を 傾 け ま す 。

6 わ た し た ち は 神 に 属 す る 者 で す 。 神 を 知 る 人 は 、 わ た し た ち に 耳 を 傾 け ま す が 、 神 に 属 し て い な い 者 は 、 わ た し た ち に 耳 を 傾 け ま せ ん 。 こ れ に よ っ て 、 真 理 の 霊 と 人 を 惑 わ す 霊 と を 見 分 け る こ と が で き ま す 。

 

 

残念ながら、「チャネリングを通して高次元の見えない不思議な存在と繋がる」というような話は幻想のようです。

チャネリングを通して現れた霊は全て悪魔、悪霊です。

そのような存在と関わることは、悪魔に人生を乗っ取られることであり、悪魔の嘘に振り回されて生きることであり、自分を幸せにする法則と呼ばれるような代物ではないと思います。

そのような悪魔、悪霊が書いた本を読むのは止め、聖書を読むことをお勧めします。

 

出エジプト記第20章1節~17節

十戒

神はこれらすべての言葉を告げられた。

「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。

あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

 

レビ記第26章1節

あ な た が た は 自 分 の た め に 偶 像 を 造 っ て は な ら な い 。 ま た 自 分 の た め に 刻 ん だ 像 や 石 の 柱 を 立 て て は な ら な い 。 あ な た が た の 地 に 石 像 を 立 て て 、 そ れ を 拝 ん で は な ら な い 。 わ た し が あ な た が た の 神 、 主 だ か ら で あ る 。

 

申命記第18章9節~12節

9 あ な た の 神 、 主 が あ な た に 与 え よ う と し て お ら れ る 地 に 入 っ た と き 、 あ な た は そ の 異 邦 の 民 の 忌 み き ら う べ き な ら わ し を ま ね て は な ら な い 。 1 0 あ な た の う ち に 自 分 の 息 子 、 娘 に 火 の 中 を 通 ら せ る 者 が あ っ て は な ら な い 。 占 い を す る 者 、 卜 者 、 ま じ な い 師 、 呪 術 者 、1 1 呪 文 を 唱 え る 者 、 霊 媒 を す る 者 、 口 寄 せ 、 死 人 に 伺 い を 立 て る 者 が あ っ て は な ら な い 。 1 2 こ れ ら の こ と を 行 う 者 は み な 、 主 が 忌 み き ら わ れ る か ら で あ る 。 こ れ ら の 忌 み き ら う べ き こ と の た め に 、 あ な た の 神 、 主 は 、 あ な た の 前 か ら 、 彼 ら を 追 い 払 わ れ る 。

マタイによる福音書第7章 7節~12節

求めなさい

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるに違いない。だから、ひとにしてもらいたいと思う事は何でもあなたがたも人にしなさい。これこそ律法と予言である。」

参照外部リンク

「悪魔」と「悪霊」の違いについて。「イルミナティ」と「フリーメーソン」の違いについて。(1)http://rapt-neo.com/?p=16171

「悪魔」と「悪霊」の違いについて。「イルミナティ」と「フリーメーソン」の違いについて。(2)http://rapt-neo.com/?p=16192

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悪魔を拝んで人生を破壊する生き方から、神様を拝んで人生を幸福にする生き方へ。